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第一章 再会3

作者: 相沢蒼依
last update 公開日: 2026-08-14 11:52:15

***

 17時を少し回った頃、井上さんが秘書室から労いの声をかけてくれた。

「九条くん、お疲れ様。初日から、いきなり大量の議事録でごめんね」

 言いながら、穏やかな笑顔を井上さんは浮かべる。

 落ち着いた物腰なので、秘書長という肩書きがよく似合っていた。彼は智臣の第一秘書であり、社内では「右腕」と呼ばれる人物だと後で知った。

「井上さん、今日はいろいろありがとうございました」

「時間あるかな? この後おこなわれる会議前に、社内を少し案内するよ。コーヒーでも飲みながら話そう」

 井上さんは俺を連れて、秘書室に隣接した小さな休憩スペースへ案内してくれた。

 自動販売機でアイスコーヒーを買ってくれ、向かい合って座る。

「どう? 初日の感想は?」

「……正直、拍子抜けしています」

 俺が素直に答えると、井上さんは小さく笑った。

「だろうね。社長が君を直々に指名したって聞いたときは、みんな驚いたよ。特に君みたいな若い子を秘書に据えるなんて、かなり珍しいことだから」

 井上さんはコーヒーを一口飲んでから、穏やかな口調で話し始めた。

「一ノ瀬社長の仕事スタイルを、簡単に説明しておくね。まず覚えておいてほしいのは、社長は超合理主義だってこと。無駄を何よりも嫌う人だよ。無駄な会議は絶対に開かない。資料は事前にしっかり読んで、結論だけを簡潔に報告する。長々とした説明をすると、すぐに『要点は?』って切ってくるから注意して」

 俺はこくりと頷いた。

「残業も嫌いなんだ。基本的に19時を過ぎたら『帰れ』って言うよ。社員のプライベートを尊重する人だから、家族がいる人は特に感謝してる。ただ——」

 井上さんは、そこで少し声を低くした。

「仕事に対しては非常に厳しい。ミスは絶対に許さないし、甘えも見逃さない。『できると言った以上は、責任を持ってやりきれ』が口癖だね。でも、社員に対しては意外と優しいんだ。体調不良の人が出たらすぐに休ませるし、優秀な人間にはしっかり還元する。ボーナスも業界トップクラスだよ」

(何だか……思っていたのと、随分違う)

 俺は心の中でつぶやいた。

 冷徹で復讐心が強くて、逃げたオメガを徹底的に追い詰めるような人間だと思っていた。なのに今日一日接した智臣は、ただ淡々と仕事をこなす、合理性を極めたビジネスパーソンにしか見えなかった。

「九条くん?」

「あ、すみません。続きをお願いします」

 井上さんは優しく微笑みながら、さらに説明を続けてくれた。

「社長は基本、感情を表に出さない人だ。でも、部下のことをちゃんと見てるよ。君がどれだけ頑張れるか、今日からしっかりチェックしてるはずだ」

「そうなんですね」

「社長は、期待しない人に仕事は任せません」

 期待――その言葉が少しだけ、胸に重くのしかかった。

 結婚式場から逃げ出した相手に、期待されるなんて予想外すぎる。復讐か、嫌がらせか、せめて冷たい仕打ちがあると思っていたのに、与えられたのは大量の仕事と、合理的で無駄のない指示だけなんて――。

 井上さんが最後に、ふっと柔らかい笑みを浮かべた。

「まあ、最初はみんな戸惑うよ。でも慣れると働きやすい職場なんだ。九条くんも、きっと大丈夫だと思う」

「……ありがとうございます」

 休憩スペースの窓から見える夕焼けが、ビルの谷間に赤く染まっていく。 俺はまだ、智臣の本意が全く読めずにいた。

 ただ一つだけ、今日の初仕事でわかったことがある。

 一ノ瀬智臣という男は、俺が勝手に想像していた人物像とは、かなりかけ離れているらしい。 そしてその事実は、なぜか胸の奥に小さな違和感を、静かに灯し続けていた。

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